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常陸那珂港~阿字ヶ浦海水浴場~那珂湊漁港と走ってきた。
湾内に、、カモ?? |
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グーグルさんに画像を見せると、、、オオバンだという。
そこで、オオバンってなによ?と聞くと、、、
【外見】: 全長は約39cmで、ずんぐりとした体型をしています。全身が光沢のない黒色で、くちばしから額にかけての白い部分(額板)が特徴的です。
【分類】: バンやヤンバルクイナと同じクイナ科の鳥で、カモの仲間ではありません。
【生息地】: 平地の湖沼、池、河川、水田などに生息しています。
【行動】: 泳ぎや潜水が得意で、主に水生植物を餌とします。非繁殖期には大きな群れを形成することもあります.
【足】: カモのような指の間の膜状の水かきではなく、指のそれぞれにひれ状の「弁足(べんそく)」と呼ばれる水かきを持っています。これにより、水中だけでなく陸上も歩きやすくなっています。
だってさ。
全長約39センチって、、俺だったら約40センチっていうけどな。 |
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次に来たのは、ここ!
山上門(さんじょうもん) ひたちなか市指定建造物
平成四年六月二十五日指定
ひたちなか市栄町一丁目十番
この門は、水戸藩江戸小石川邸(現在の東京都文京区小石川町)正門右側の門で、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門である。小石川邸の建物はこの門のほかは全て失われており、今日現存する邸内唯一の建築物である。名前の由来は、後に小石川邸内の山上に移築されたことによるといわれる。
幕末動乱期には佐久間象山(兵学者)、横井小楠(政治家)、西郷隆盛(政治家)、江川英龍(兵学者)、橋本左内(思想家)ら幕末・維新史上重要な役割を担った諸藩の志士たちもこの門をくぐり、小石川邸に出入りしたといわれる。
形態的には薬医門である。薬医門は本柱と控柱を結ぶ梁の中間に束をおき切妻屋根をのせた門で、江戸時代後期の典型的な屋敷門である。
昭和十一年に那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省から払い下げを受け、那珂湊の当地に移築し保存したもので、昭和三十二年に那珂湊市へ寄贈されている。
ひたちなか市教育委員会 |
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こりゃ立派だ! |
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茨城県指定史跡
那珂湊反射炉跡
Nakaminato Cannon Foundry
幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、大砲鋳造を目的として当吾妻台に建設したのが反射炉(大型の金属溶解炉)である。
建設にあたっては、薩摩藩士竹下矩方、三春藩士熊田宗弘、南部藩士大島高任らの協力を得て、那珂湊の大工飛田与七や瓦職人福井仙吉が尽力した。
安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年に2号炉(東炉)が完成した。高さ約15m、使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれている。
元治元年(1864年)の元治甲子の乱で破壊され、昭和12年に現在の模型が、ほぼ原型どおりに復元された。
指定日 平成16年11月25日
設置者 ひたちなか市教育委員会 |
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那珂湊反射炉
英語表記は
「Nakaminato Cannon Foundry」
那珂湊 大砲 鋳造工場
英語表記の方がわかりやすい! |
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伊豆の反射炉は世界遺産なのに。。。
ま、レプリカだから仕方がない。 |
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反射炉鋳砲遺址碑
反射炉之建設也、其淵源遠在 烈公受封之初。公深憂海防不備、謂大砲非反射炉不能鋳、乃命執政下野氏、画其形製、聘薩摩藩士竹下矩方、諮問其法。嘉永中、築一炉於水戸、尋移之那珂湊、未成。
反射炉の建設は、その淵源(みなもと)は遠く烈公(斉昭)が藩主となった当初にあり。
公は海防の不備を深く憂い、「大砲は反射炉でなければ鋳造できない」と言われ、執政の下野氏に命じて設計図を描かせ、薩摩藩士の竹下矩方を招いてその製法を問われた。嘉永年間に水戸に一つ築き、次いで那珂湊に移したが、完成しなかった。
安政二年、更命執政戸田氏、董其役。三春藩士熊田宗弘、南部藩士大島高任、並来参画。那珂湊人飛田与七、司其工。福井仙吉、製其煉瓦。二基皆成、自是相継鋳之。
安政二年(1855年)、改めて戸田氏に命じて監督をさせた。三春の熊田宗弘、南部の大島高任も参画した。地元の飛田与七が工事を、福井仙吉が煉瓦(レンガ)製造を担った。二基の炉が完成し、これより相次いで大砲を鋳造した。
万延元年、命執政安島氏、更増其制。自本藩、及江戸、其他諸藩、供其用。而其図画、皆本於下野氏、其成功之巨、固足以震動一世、威嚇海外。
万延元年(1860年)、安島氏に命じて規模を拡張した。水戸藩や江戸、他藩の用(防衛)にも供した。その成功は巨大であり、一世を驚かせ、海外を震え上がらせるに十分であった。
元治元年甲子之乱、兵火及之、連甍焦土。嗚呼、烈公為国長慮、耗精竭力、以建此炉、而不幸遭此難、遂為榛蕪之地、悲夫。
元治元年(1864年)甲子の乱(天狗党の乱)が起き、戦火が及び、建物は連なりながらも焦土となった。ああ、烈公が国のために深く考え、精力を尽くして建てたこの炉が、不幸にもこの難に遭い、ついに草むらの荒れ地となってしまった。悲しいことである。
維以反射炉、為我邦鋳砲之権輿、其功不可泯也。於是、前藩士、及有志、相謀建碑。以記其梗概、而使後人有所感、亦足以慰 公之遺志云。
この反射炉こそが我が国の大砲鋳造の先駆けであり、その功績を消してはならない。そこで旧藩士や有志が相談して碑を建てた。あらすじを記し、後世の人(あなた)に感ずるところがあれば、公の遺志を慰めることになるだろう。
大正五年十二月 水戸 栗田勤撰並書
大正5年12月 水戸の栗田勤、これを撰文し書す。 |
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目の前に那珂湊高校の校舎が建っていて海側は見えない。
右手には那珂川
国道245号の湊大橋が見える |
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駐車場はこんな住宅地の中 |